クレイジーカンガルーの夏
誼 阿古
家の事情、というものは所詮他人には分からないものなのだ 例え外からどんな風に見えようとも家庭内のことはそれぞれが負っていくしかないのだ・・・
ということを、漠然と自覚したのは中学生の頃だったように思う。
それはたぶん外部の人々に対して普通に自分の家庭の話をしたら、この物語のワンシーンのように
「お前らんちって、一体いつの時代の人?」
と半ば呆れて言われるのがオチだと気が付いたからで。
先日刊行された「クレイジーカンガルーの夏」は誼 阿古(よしみ あこ)さんのデビュー作に当たる。
都会でもなく田舎というわけでもない郊外の、旧来的イエ制度というのは厄介だ。旧来の大人たちは自分達にとって都合のいい封建主義だけを利用しようとするので、現実に生きなければいけない若い世代はその価値観のギャップに悩む。
それでも確実に時代はバトンタッチされていくし、されなくてはならない・・・しかし、そのバトンタッチは必ずしも大団円に進められるわけではなく、様々な葛藤と軋轢を生み出しつつ、変わるものと変わらないものを馴染ませながら、ほんの少しずつ前に進むのだろう。
ライトノベルというカテゴリのなかで、著者はよくこの「実感としてわかってもらいにくい家庭環境」を背景に少年の成長を描ききったものだ。
主人公を取り巻く家庭環境はどことはなしに私の生家と似た部分があって、時代錯誤な大人たちに苦笑させられるシーンがいくつか。
大きく違うところは、私の生家が斜陽とはいえ工業系の自営業だったことと、ニ人兄弟ではなく一人娘だったということか。
主人公の兄に注がれる期待と理不尽なプレッシャーは、だから肌で理解できるものがあり「東京の私立ばかり受験した」という描写にも笑ってしまった。重苦しい「イエ」の空気から円満に合理的に離れる方法は無いものか・・・と行動すれば、自ずと取る行動だから。
イエとか親に反発してツッパリになることの出来る子供というのは随分甘えてるよな、と当時実家に居た頃には思ったものだった。そんな風な道を選ぶことも叶わない世界も世の中にはあるのに・・・という感覚は今も根強く染み付いていて、ツッパリを主人公にした漫画や歌詞やテレビドラマのあれやこれやに共感することは殆ど無い。
また地域的なものもあるかもしれないが、私よりもちょっと上の世代は「校内暴力」まっただ中で、その名残がある中学校の雰囲気はまだ荒れていて好きではなかった。
授業中に騒ぎ、立ち歩き、校内を我が物顔で振舞うツッパリたちの行動など、ただただ鬱陶しかった私だったので彼らのスタイルに共感できるわけがないのだが。ただスタイルとしての派手さはインパクトがあるので色んな素材に使いやすいのだろうとは思う。でもそんな生徒はやはり少数で、殆どの生徒はこの作品に出てくるような「普通」な子供たちだったのだ。
荒んだ学校など面白くない、家に帰るのもいや・・・という中学生時代を自分がどう過ごしたかという話はとりあえず置いておくとして。
ある意味で結婚は束縛であるというイメージは一般的にあると思うのだけれど、少なくとも結婚して家庭を持つということは私にとっては確実な解放だった。少なくとも法的にイエの管理下に置かれることはなくなるのだから。
家庭を築くという事は、社会的に独立した存在と認められるためには好都合な部分もあるのだ。だから家庭を破綻させるようなことは絶対にしてはいけないと結婚当初から思っていたし、母に自分の家庭内の愚痴を言ったこともなかったりする。それは自分の選択の敗北だったからだ。
子供のうちはとりあえず努力次第で色んな選択肢があるのだが、大人になるにつれ選択肢は狭まり自分が選び取ってきたものだけが増えていくことになる。そうなった以上、自分の選択に如何に負けないで生きていくかという意地は持っていたほうがいい。そうはいっても「選択に負けない」ということが必ずしも決めたことをやり通すということと同義ではなくて。
主人公の広樹が最後に自分で決めた選択は独立した大人としてのそれであり、そこに至るまでの道程にも興味をかきたてられる。
少年時代に聴いた音楽とか見ていたアニメとか読んだ小説とか色々、それら全てがかけがえのないものとして描かれていて愛情ある描写が居心地良い。1979年が舞台の作品で主人公が気に入るのは「はっぴいえんど」好きなアニメは「ガンダム」兄の部屋から流れてくるのはイーグルスやクラッシュ サザンの「いとしのエリー」・・・・
思春期に「それがあったから生きてこられた」という音楽とか漫画とか映画が「在る」ということは本当に幸せな時間だし、いまの中学生にこそ、そういった存在が必要なんではと改めて感じさせられた。
逆に言えば、昔の作品のほうが求心力があったということなんだろうか。生きていないと、続きを見ないと人生損をするというような存在が減ったのか。
自殺をするこどもが増えたということは勿論直接的な原因が最大だとは思うのだけれど、生きる支えになれるようなアーティストやクリエイターが減っているというシグナルのような気もする。視野を広げれば夢中になれる対象にも出会えるはずなのに、そのきっかけをつかめないでいるだけなんだと思う。
大人になった広樹にとってカーラジオで流れてきた「はっぴいえんど」はきっと彼にとって唯一無二のものだったろう。
そんな音楽は、きっと誰にでもあるはずなのだ。