水辺に片足で立っているフラミンゴ。
あんなに細い細い脚で片足立ちだなんて、大丈夫なんだろか・・・
たぶん、フラミンゴの側からするとそれは至極当然の所作なのだろうが、見る側からするといかにも心許ない立ち姿に見えてしまうのだった。
本人は常に自然体なのに、外から見ると何とも危なっかしいその様子は、確かに中学生くらいの女の子とよく似ている。
紅い炎の色を羽に湛えたフラミンゴはいつも群れているのに、時々その群れから外れてしまうものがいるらしい。群れからはみ出てしまうと「クレイジー」だと呼ばれてしまうのだった。
決して仲間が嫌いなわけじゃない。
でも噂話や湿度の高い付き合いに馴染めない少女は、時々群れから離れないと窒息してしまいそうになるのだ。それが生きるための努力であるということに、なかなか気付いてくれるひとは少ないけれども。
この作品は前作「
クレイジーカンガルーの夏」のスピンオフ作品。
とはいえ、前作から読んでいるひとにもそうでないひとにも充分読み応えのある作品になっている。
今回の主人公「菅野晴」は中学1年生の少女で、優等生の両親に育てられたせいもあり、いまひとつ自分に自信が持てない。
学校と家庭の日常を平穏に暮らしたければ、自分の心を無防備に露わにせず上手に振舞う必要がある。しんどいけれど、そうしないと尚面倒なことになることも察しがつくから。
そんな日常の延長は合唱コンクールを契機にして、晴を含む彼らに現実と向き合うとはどういうことなのかを気付かせていくのだった。
その風景の先に広がるのはビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」。
たぶん私は今後ピアノ・マンのイントロを聴くと、この美しい反逆のシーンを思い浮かべるだろう。反社会的な態度を取るだけが反逆ではなく、しなやかに挑戦することもその手段であるということ。ロックの本質は、そこにあると思う。
阪急32番街の輸入盤店は私も頻繁に出入りしていた。その空気や人いきれなんかも当時のまま思い出すことができる地の利があるとはいえ、この店内のシーンやエレベーター・ホールのシーンは、映画のワンシーンのように鮮やかだ。
あの頃は32番街の展望ホールに居る事も平気だったのに、あるときを境に高層ビルが怖くなってしまってもう随分ご無沙汰している。
大人になったらもっと自由になれるんだろう・・・と昔32番街をうろついていた頃に漠然と思っていたものだけれど、歳を重ねるとその分の責任とか義務ももれなく付いてくるので、中高生の頃に思い描いたような「自由な大人」は実は幻想だったのだなとわかってしまった。
晴の担任である原田先生は、リアルに大人を生きているのだけれど、生あたたかい優しさで生徒を丸め込んだり誤魔化したりしないところがいい。こんな風に向き合ってくれる先生が居れば、生徒もラッキーだ。
何よりこのひとは色んな意味でいい男である。
サラ・ヴォーンの「ラヴァーズ・コンチェルト」、YMOの「RYDEEN」、ビートルズの「SHE'S GOING HOME」ブルース・スプリングスティーンの「RACING IN THE STREET」・・・ここでは紹介しきれない挿入歌の全てが、単なる演出上のB.G.M.でなく作品のストーリーとしっかり切り結んでいるのが素晴らしい。
うーん、やっぱりこれはサントラが欲しいですね マジで(笑)自分で作ろうかな。